向上心が強迫観念に変わっていった体験

「向上心が、ひっくり返り、強迫観念となる。」
私は長らくそう思っていた。

これまで「上手になりたい」と願ったものは、レゴブロック、将棋、剣道、勉強といくつもある。そして、それらに共通していたのが、向上心がいつしか強迫観念に変わってしまったことだった。

自分の体験から、この心の動きを言語化する。

興味から向上心へ

最初は、誰かにすすめられて始める。
興味本位で触れてみると、面白くて夢中になる。
この段階ではまだ、「趣味」と言えるような気軽さがある。

しばらくすると、他人のレベルに触れる機会が出てくる。
レゴなら父親の作品。将棋なら祖父。剣道は道場。勉強なら学校の成績。

将棋についは最初はさみ将棋で、遊ぶって感覚だった。
そのあと、将棋を教えてもらい、おそらくスポーツみたいな競争心に火が付いたのだろう。悔しいと。

他のものも将棋と同様。
いずれにせよ、他人に刺激をうけて自分も上手になりたいと思うようになる。

そして、うまくできた瞬間の嬉しさ。ちょっとした成功体験がある。
一方で、負けたり、できなかったりして悔しさも感じる。

将棋で祖父に負けたり、九九を覚えられなかったこともあった。
その悔しさから「もっと上手になりたい」と自然に努力する気持ちが生まれる。

今思えば、剣道の練習を週1回から2回に増やしたいと言ったり、塾に通いたいと自分から言ったこともある。

このころは、純粋な向上心が支えていた。

向上心からの転落 最初の大きな壁

ただ、その向上心はある時期から大きな壁にぶつかる。

最初の小さな壁は、少し努力すれば乗り越えられた。
でも、あるときから壁の高さが変わる。

短期集中では乗り越えられない、継続的で本格的な努力が必要になる。

剣道では、区大会で勝つことが当たり前に感じていた。
けれど、区の選抜に入って他区の選手と試合をしたとき、いきなり二振りで2本取られ、最速で負けた。
「そんな負け方あるのか」と、屈辱的だったのを今でも覚えている。

将棋の道場には、小学生でも驚くほど強い人がいた。
レゴはネットで圧倒的な作品を見せつけられる。
勉強では、模試で桁違いの天才が同じ教室にいた。
呑み込みの早さ、地頭の差を感じさせられた。

ちょっと悪っぽいやつらの方が頭よくて、真面目にやっているけれど普通の自分がいて、なんだかなとも思ったりもした。

「上手になりたい」が「上手でなければならない」へ

その壁を前に、以前のように努力で乗り越えようとする。
でも、長期的な継続が必要な段階では、だんだん歯車が狂い始める。

そうして生まれてきたのが、「強迫観念」だった。

自分の中で、厳しいセルフトークが日常化する。
「まだこんなレベル?」「何年もやってるのに成長してない」
「努力が足りないんじゃないか」
「本当にセンスがないんじゃないか」……

レゴなら、どれだけまねてもリアリティが出ない。
他の人の作品はアイデアもある。自分のはつまらなく感じる。
前は、ただ手を動かして作っているだけで楽しかったのに。

気づけば、作品がまったく作れなくなっていた。

セルフトークと自己否定のループ

この状態には二つの否定がある。

  1. 理想と現実のギャップから生まれる自己否定(やっているとき)
  2. 努力していない自分への否定(やっていないとき)

1は、取り組んでいる最中に「なんでできないんだ」と自分を責める。
2は、やっていない時間に「やってない自分はダメだ」と責める。

見える世界がひろがってきて、自分が井の中の蛙ということを思い知らされる。
だけれど、それに打ち勝ちたいと高い理想を掲げる。

そして、ギャップが広がる。そのギャップはなかなか埋まらない。だから
自分はだめだと自己否定が生まれるのだ。

その自己否定がだんだん拡張されていき、やっているときだけでなく、やっていないときの自分も否定するようになる。

つまり、どちらの時間にも自己否定がある。
逃げ場がない。

これは、自己愛の低さや「条件付きの自己肯定感」が絡んでいたと思う。
努力している自分だけが自分を認められる。

努力していない自分は、存在価値がない。そんな感覚だった。

続けられたものと、やめたもの

結局、レゴや将棋は中学校に入るころにはやめてしまった。
理由はつらかったからだ。

でも、剣道と勉強は続いた。
なぜか。
それは外的な圧力があったからだ。

剣道の部活は、辞めたら「負け犬」扱いされる空気があった。
自分もその空気を内面化していた。
「途中でやめるのはダサい」と本気で思っていた。

勉強は、もっとシンプルに「逃げられないもの」だった。
「勉強しないと将来終わる」
「受験は避けられない」
そう思い込んでいた。

子ども向けの教材、たとえば「チャレンジ」のような通信教育の漫画でも、不安をあおられた。
あの赤いウサギのキャラが、焦る子どもたちの心理を突いてくる。
知らず知らず、危機感だけが育っていた。

おわりに

向上心と強迫観念の入り口を振り返ると、ちょうど自分の小・中学校時代であった。ここが、強迫観念の入口だったと思う。

今は、当時よりもずっと生きるのが楽になった。
それはおそらく、「自己管理」がうまくなったからだと思う。
自己否定のパターンやトリガーを知り、そこから少しずつ離れられるようになった。

高校時代になると、この強迫観念はさらに強まっていく。
ただ、それについてもなぜそうなったか、ある程度分析できているので、また別の機会に書こうと思う。

あとは思考プロセスの部分。
感情と思考がごちゃまぜになり、自分の思考にたいして、本当にそうかと冷静になれていない部分や視野の狭さ(物事の価値を図る基準がうまいか、下手か)が目立つ。その視野の狭さが自己価値を低くさせて、条件付き自己愛につながる。

ここら辺の思考プロセスの部分もまた別の機会に分析したい。


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