察するとはサービス

察している状態は、言葉にはなっていない「何か」にセンサーを張り巡らせていること。

これをやめることにした。
何か要望や問題があったら、言葉にされるはずだと。
言葉にして伝えない方が悪いとそう割り切ることにした。

彼女にも、改めてそのスタンスであることを伝えて、変に気を遣うこともやめることにした。

保守の仕事でもそうだ。アラートが発砲したときのログ調査とか、WBSに引かれていない宙ぶらりんな作業があったときに、「これ、自分が気づいたならやった方がいいよな」と思って手を動かす。でもそのたびに、「けれど、また仕事増えそうだな」とも思う。

友人や彼女と付き合うときもそうだ。相手が元気なさそうだったら、「よし、相手が好きそうな話題にするか」「今日は真面目な話は控えようか」と空気を読んで調整する。

教える場面でもそう。相手に伝わっていなさそうだったら、少し説明を具体的にしてみるとか、「図を使った方がわかりやすいかな」と考える。

自分でも思う。いろいろ察することをしている。

けれど、それはやっぱり疲れる。
なぜなら、毎回毎回判断しないといけないからだ。

しかも、人によって求めるものがばらばらだし、何より、言葉にされていないものを読むのは、すべて勝手な妄想と言われればそれまでだ。

そんな曖昧なものにセンサーを張り巡らせて体力を割くのが、最近はもったいなく感じる。

たぶん、察することで受けている恩恵もあるとは思う。
けれど、効果測定もしていないし、どんな影響があるのかも分からない。
また、何か未来予知してリスクを回避できた場面もあるかもしれない。

メリットデメリットどちらもあるが、察することをやめて、日々自分が楽になる決断をした。


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