全社研修に参加した。普段関わらない部門の、同じ年次の社員たちがどんな仕事をしているのかを知る機会だった。
研修云々よりも彼らとのかかわりで自分が平均という呪いにとらわれていることに気づいた。けれど、過去別のことではあるが、平均で苦しんだ経験を思い出し、自分の認識を再構成する。
さて、話を戻す。全社研修では自分のキャリアを振り返るのが主な趣旨である。リーダー経験を積み、上流工程に携わっている同期たちのキャリアが多かった。一方の自分はどうか。担当者レベルの作業がメインで、リーダー経験もなければ上流工程にも踏み込めていない。
その現実を突きつけられたとき、思わずよぎった。
「俺、平均以下なんじゃないか?」高学歴だったこともあり、“平均以下”という言葉がプライドを刺した。「頑張ってきたつもりだった」のに、報われなかった感覚が悔しかった。
さらに残念なことに自分で話しながら気づいていたのだが、「自分は担当者レベルの作業しかしたことないんですけど」っていう言葉を頻繁に使う。これは自分を卑下する前置きをして、傷つかないように自己防衛しているのである。
これに気づいたとき、やってしまった。一番やってしまってはいけないことをって自分のふるまいを思い返していた。
でも、冷静になって考えてみた。
この感覚、過去にも経験したことがある。そして気づいた。
平均という概念で苦しむのは、自分が「どこまで行きたいか」を決めていないからだ。
■ なぜ「平均」に苦しむのか
過去を振り返ってみると、“平均”や“他人と比べてどうか”で苦しくなるときは、以下のような状況だった。
- 自分がどこまでのレベルを目指しているかを定めていない
- なのに、なんとなく「頑張ったつもり」ではいる
- だからこそ「報われなさ」を感じてしまう
- けれど本当は、強くこだわっていたわけではない
私は、仕事に強い理想や熱意を持っていたわけではない。
ただ、生活のために必要だし、真面目に向き合ってきた。
だからこそ、「市場価値」や「同期との比較」は気になって当然だったのだ。
■ 自分の基準を持つことで、比較は消える
ここであらためて、自分の「理想到達点」を明確にすることにした。
・20代のうちに、リーダー経験もしくは上流工程のタスクを経験すること。
これは、残念ながら未達である。
でも、それを明確に認識すること自体に、意味があると思っている。
なぜなら、自分が「どこまでを目指すのか」を決めていると、
他人と比較したときの苦しさは、体感90%減る。
他人と比較しても、
「そういえば自分はこのくらいを目指してたんだった」
と切り替えることができる。
これは、比較ではなく、自分軸で生きるということだという感じなのかなと思う。なれない言葉は使うもんじゃないけど。
■ なぜブログに書くのか
この気づきをわざわざブログにすることもないかもしれない。
しかし、私は「どこまで求めるのか」を、発信という形で言語化することに意味があると思っている。
日記のように、自分の中で整理するのも大切。でも最終的に「自分を確立する」のは、他人の目がある中でも、自分の言葉で発信することだと思う。
ブログじゃなくてもいい。会話の中で自分の考えを伝えるのでもいい。
私は、文章にすることで考えを整理しやすいから、ブログという手段を選んでいる。
比較の呪いに巻き込まれる前に、自分の言葉で線を引いておきたいのだ。
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